ぐる式 (貳) より引っ越し作業中.未完.

2006年3月22日水曜日

落語天女おゆい #11 最後の戦い 失われる命

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「そこにいる兵士だけではない.江戸市中の者を含め,二十万の命は我が掌中にある」 © 小塚原左京.

左京が人質に取った江戸住民の魂の数「二十万」が気になって気になって (笑).当時の江戸の総人口だとすると,現在の葛飾区ぐらいの大きさであったパリが十九世紀半ばにはすでに人口百万を突破していた*1んで,この数字は解せない.当時の江戸は世界でも最先端の衛生事情を誇っていたというか,上下水道が完備されていて,都市としてのキャパシティは世界一だったと記憶してるんで,なおさら解せない (笑).をい,だいたいが左京は「江戸市中の者を含め」と言っとるぞ.

Wikipedia によると「18世紀初頭には人口が100万人を超え」とあり,東京都総務局統計部が作った「江戸の人口について」だと,町方並寺社門前町人だけでも 1843 年の段階で 587,458 人という数字が残っている.区域としては東京市設置当時の15区 (千代田区,中央区,港区,文京区,台東区,新宿区の一部,墨田区の一部,江東区の一部) とすると,この「二十万」という数字の意味は何なんだろ,判らん (笑).唯たちの本陣って確か目黒にあるはずで,左京の言葉からすると,左京が押さえた計都城を中心とする区域の人口というわけにはならない.邪に転びそうな人数ということならもっと多そうだし (笑),ハッタリだとすると妖魔の数かも知れん.いやぁ,要は二十万を失ったとしても江戸は壊滅せんということで,ならもっと思い切った駆け引きも可能になる.

*1: 喜安朗 "パリの聖月曜日 - 19 世紀都市騒乱の舞台裏", 平凡社, 1982, p.10.

一八六〇年にセーヌ県知事オスマンのもとで実現した都市改造の結果,パリの市域が拡大するまで,十九世紀のパリは十二の区からなる都市であった.面積は約三四平方キロメートル,現在の東京の葛飾区ほどの大きさでしかない.人口は一八四六年に一〇〇万を超えた.

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