ぐる式 (貳) より引っ越し作業中.未完.

2009年8月24日月曜日

懺テスカトリポカ拾遺

タウンゼント本

こちらは単独項目が立てられているわけではないので,あちこちから拾い集めてみた.

「煙立つ鏡」ことテスカトリポカはしばしば最も強力な最高神であり,運命の概念と結びついていた.この神はおそらく,マナ〔自然界に内在し,そこから発現して宇宙の秩序を維持する超自然的な力〕に似た力,すなわち万物の中に本来的に宿る神秘的な力を体現しているとみられる.この神の真髄を示す象徴である黒曜石の鏡は卜占と関係し,シャーマニズム的な起源との関連を示しているが,この神が特に王権と同一視されていたことにはほとんど疑いの余地がない.テスカトリポカは王権に関係した儀礼で唱えられる最も長く敬虔な祈りの主題になっている.

[ リチャード・F. タウンゼント "[図説] アステカ文明", 増田義郎 監修, 武井摩利 訳, 創元社, 2004, ISBN4-422-20227-8, p.161., (Richatd F. Townsend "The Aztecs", 1992, 2000) より ]

アステカの主な神とその崇拝
名前 意味 主な属性
運命 テスカトリポカ 煙立つ鏡 (黒曜石の鏡) 全能の神.運命 (幸運・不運の両方) と結びついている.別の隠喩的称号として.モヨコヤニ (彼自身を作る者),ティトラカワン (われらは彼の奴隷),ヤオトル (敵),イパルネモアニ (近くのものの王),トロケ・ナワケ (夜・風) がある.テスカトリポカは即位の時に語られる言葉や祈りの中でひときわ多く言及される.支配権と特別な関係を持つと考えられていたに違いない.

[ 前掲書, p.162. より ]

テスカトリポカの称号である「風」「夜」「近きものの王」は,それぞれ生の息吹きと不可視性とあまねく及ぶ力とを暗示していた.テスカトリポカはトルテカに起源を持つ神で,特に王権と同一視されていた.ウィツィロポチトリ像の前に立ってテスカトリポカに呼びかけることで,支配者は古くからの崇拝とアステカの神格化された英雄戦士への崇拝をつなぐ役目を果たしていたのである.テスカトリポカとウィツィロポチトリは,特に「兄弟」と呼ばれることもあった.

[ 前掲書, p.295. より ]

アステカの年間祭礼
アステカの「月」 祭礼の名 (意味) 西洋の暦との関係 主神 儀礼と習慣
V トシュカトル (乾燥) 5 月 5 日〜 5 月 22 日 テスカトリポカ/ウィツィロポチトリ/ミシュコアトル/カマシュトリ 再生の大祭.前の年から一年間テスカトリポカに扮していた「神の体現者」が生贄にされる.ウィツィロポチトリにも同様の生贄が捧げられ,またトラシュカラとプエブラ盆地でも関連する祖先神に生贄が捧げられる.
IX ミッカイルウィントリ (死者の小祝宴),トラショチマコ (花の誕生) 7 月 24 日〜 8 月 12 日 テスカトリポカ/ウィツィロポチトリ/祖先神 祝宴,踊り,死者のための供物.神格化された祖先英雄であるウィツィロポチトリに生贄が捧げられる.
XV パンケツァリストリ (旗の掲揚) 11 月 21 日〜 12 月 10 日 ウィツィロポチトリ/テスカトリポカ ウィツィロポチトリの生誕とコヨルシャウキに対する勝利を祝う軍事大祭.テノチティトランの大ピラミッドで行われる.捕虜が大々的に生贄にされる.ピラミッドからトラテロルコ,チャプルテペク,コヨアカンをまわってピラミッドへ戻る大規模な行進が行われる.果樹とともに家に紙製の旗が飾られる.

[ 前掲書, pp.309-311. より ]

  1. 妖術師テスカトリポカ [ 前掲書, p.23. より ]
  2. 権力闘争が起こり,それはケツァルコアトル対テスカトリポカという図式に集約された.テスカトリポカはシャーマン的な力を持った魔術師またはトリックスターであり,好戦的な彼の一派は人間を生贄にするよう要求していた. [ 前掲書, p.65. より ]

以下はおまけ.

  • オメヨカンから見た方位と色:東西南北=赤黒青白. [ 前掲書, p.172. より ]
  • バタイユ,土方本でも言及されていた,ナナワツィンとテクシステカトルの太陽と月の創造. [ 前掲書, pp.176-178. より ]

グリュジンスキ本

この本にはテスカトリポカのみに関する記述はほとんどない.

(モテクソマ二世の娘である) テクイチュポツィン (Tecuichpo(ch)tzin) は最後のメシカ族君主となったクィトラワク (Cuitláhuac) とクワゥテモク (Cuauhtémoc) に相次いで嫁ぎ,征服後は洗礼を受けてイザベル (Doña Isabel Moctezuma) と名乗った.

[ セルジュ・グリュジンスキ "アステカ王国—文明の死と再生", 「知の再発見」双書 19, 落合一泰 監修, 齋藤晃 訳, 創元社, 1992, 2007, ISBN4-422-21069-6, pp.102-103., (Serge Gruzinski "Le destin brisé de l'empire aztèque", 1988) より ]

そう言えば,「」と略される名称を持つのがいるんだが,まさかね…….

同書 p.53 にアウィツォトル (Ahuitzotl) 王の治世で,大神殿の落成式が行われた.新しく造るのではなく,実質は古いピラミッドを拡張というか,その上に被せるような形態であったそうだが,それが完成した時点の大祭,四日間で生贄 80,400 人が供儀された.とある.これは誇張された数字であって,実際は数千人規模であったという話だが,それでも途方もない人数が供されたわけだ.このときの人身御供はタウンゼント本にも言及がある.

テノチティトランの儀式史上最も恐ろしい例として永遠に語り継がれる人身御供を執り行ったのである.戦争で生け捕った捕虜が,市に入る堤道の上いっぱいに列をなして並べられ,前代未聞の人数を生贄にする儀式は四日間続いた.他民族の使節たちは恐るべき殺戮をしっかり見るようにと招集され,テノチティラトンの住民はピラミッド前の広場に立って畏怖に駆られていた.鮮血が奔流となってピラミッドの神殿や側面を流れ下り,白いしっくいを塗った歩道に巨大な血の池を作った.五十年後にスペイン人修道士や歴史家が聞き書きしたアステカの古老たちの語りは,五十年を経てもなお恐怖の色をにじませていた.アウィソトルはこの人身御供を強烈な政治的教訓として人々に示し,敵の心に恐怖心を植えつけるとともに,自国民を暴力の新しい基準に「慣れ」させた.ピラミッドの増築と,かつてない規模の儀式によって太陽と大地に滋養を捧げるという考え方は,今やテノチティトランがあらためて戦争へ向けた意志を持ったことを満天下に示すものであった.

[ タウンゼント前掲書, p.143. より ]

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