ぐる式 (貳) より引っ越し作業中.未完.

2006年8月25日金曜日

今村仁司『排除の構造』

  • 今村仁司 "排除の構造" 力の一般経済序説, ちくま学芸文庫, 1989, 1992, 2004, ISBN4-480-08021-X

やはりというか,ウンコの臭さを改良することよりも,臭さの有効な利用方法を探る方が手っ取り早いのかな〜.って,その譬え間違ってるし.ウンコの「臭さ」を認識するということはすでに「排除と物象化されたあとの結果として臭いと感じるんだよ.をいをい.

現れることが消えることそのものであるという「不在的現前」の振舞は,際限のない差異化と延期であり,とらえようとしてもとらえることのできないはるけさである.そのような運動状態を,哲学的に「ディフェランス」 (デリダ) とよぼうと,美学的に「アウラ」 (ベンヤミン) とよぼうと,どちらでもかまわない. p.93.

「アウラ」ってベンヤミン起源だったんだ……. → .hack// シリーズ (笑).

メデューサ効果.あるものを任意に価値鏡にしたり,人間を物化させる効果. p.122.

→バシュラールが「メドゥーサ・コンプレクス」と名付けたという「ユイスマンスの目」 ().

ピュシスとはカオスであり,カオスはヘラクレイトス的ポレーモスに充ちみちた状態である. p.123.

え,なんでピュシス=カオスなの? と思うだろ,ふつ〜. *1

ふつう,ひとは,カオスを「先なるもの」,コスモスを「後なるもの」と考えて,リニアーに「カオスからコスモスへ」という図式をつくりがちである. (中略) われわれの考え方は,そうではない.まずカオスがあってつぎにコスモスがくるのではなく,カオス - コスモスは一体であり,同時なのである. p.135.

*1 で引っ掛かった原因はコレ.おれの場合は逆だったけど,やっぱリニアーなステート状態を先入観として持っていたらしい (笑).

近代以前の諸社会では,暴力に呪われた力の排出口は,墓,王宮,神宮などに固定されている.それらだけが聖なる場所であった.近代社会では,あらゆる場所が排出口=聖なる空間である.逆に言えば,かつて聖性をもった空間が全般化することで,非聖化する.世俗化とは,元来聖なる空間であるべきものが,聖性の痕跡をもちつつ,非聖化することである. p.155.

例えば雛見沢 (笑).

儀礼は,タブーの作用とは逆方向に,禁止の対象となるものを一定の時空間のうちに再現するものであるが,この再現=再演は禁止されたカオス的=暴力的状況の再現=再演である. p.178.

逆に言えば,再演されたものから原初のカオス的=暴力的状況を探ることができる,と.

一味同心.現実的であれ創造的であれただ一つの第三項をたたき出すために共同体の「全員が心をひとつにする」こと. p. 182 - 184. 一味神水.参加する全員が神社の境内に集合し,一味同心すること,その誓約にそむいた場合いかなる神罰や仏罰をこうむってもかまわない旨を書きしるし,全員が署名したのち,その起請文を焼いて神水にまぜ,それを一同がまわし飲みするというものがこの時代のオーソドックスな方法であった. p. 187.

この辺りは 勝俣鎮夫 "一揆", 岩波新書, 1982, ISBN4-00-420194-2 から.この辺の風景は都市の風景に対立するものがもつイメージとしては最初の方で思い浮かべるものだろう.

一味神水の儀礼とともに「起請の鐘」がならされたこと (神社の御宝鈴や鰐口) あるいは「金打」という誓約方法があったこと (誓約者が身のまわりの金属器具を打ちならすことー武士は刀,僧侶は鉦,女性は金属製鏡をうちならす),はとくに興味深い. p. 192.

井上ひさし "雪やこんこん", 朝日新聞社, 1987, ISBN4-02-255805-9, p. 134 に,中村梅子一座の座員,金吾,信夫,ひろみ の三人が手鏡を合わせて「もう謀反はおこしません」という「「誓いの金打」をいたします」というシーンがある.「あたくしたちが侍ならば,片手に刀を抜き出して,丁々と誓いの金打をするところ」という金吾の台詞から,「武士の刀,僧侶は鉦」に相当するものが「役者の大事なこの手鏡」ということになっているのが判る.金打に用いる器具は「身のまわりの金属器具」というより,「自分の身代りあるいは分身としての金属器具」でなければならないのではないか.そういう「大事な」器具は常に身辺に置いておくであろうことから結果的に「身のまわり」にあることになるのであって,そこには「ありふれたもの」という意識はないはずだ.

人類学や民族学のなかでは,両義的存在者は,つねにモンスターとして現れる. (中略) また人類学のなかで頻出する不具性もまたモンスター性のヴァリエーションである. p. 203.

怪物が出て来たときは,まずはその両義性を探ることから始めよ,ということですね?

ひとは「第三項」という名称にとらわれて,それを物象や実体ととりちがえる傾向があるが,理論的には,第三項はあくまでも運動であり作用である.あらゆる対立的,差異的諸関係を可能にする根源的場所,それが本来の意味での第三項であり,アンビヴァラントな第三項である. p.205.

ここでも,第三項=固有名詞をもつ実体という予断をもっておりました orz.

最初の暴力的一撃以後では,全員が「ファンタスマ」になる.この状態をさして,相互分身状態という. p.214.

割りとイメージしやすい.

第三項 (犠牲者) は,単に排除されたり殺害されたりすることで終わるわけではない.排除された第三項は,何らかの形で,社会関係あるいは共同体のなかに「内面化」される必要がある. p.221.

これも当然といえば当然.

排除する身体と排除される身体のいずれの極においても,身体感覚の全体が最大限に活動する.とりわけ,「視覚」が圧倒的に優位を占める. (中略) 社会生活のなかでも眼と視覚は圧倒的に排除と物象化の原動力である. p.227.

そうそう,なぜに視覚がこれほどまでに偏重されるのか.ふつうの生活においても,五感といいつつも実は視覚が突出して優遇されてるんじゃないかと疑問に思っておったのだ.眼という構造物が生物種間の違いを超えて,大なり小なり似通った構造になっているのも,なにか関係があるのかな.メルロ・ポンティは何か書いてなかったけ.

排除の瞬間においては,被排除項との連帯,それへの共感と同乗のすべてが否認される.共同体の成員がこぞって被排除項を抑圧し,はずかしめ,汚すことに協力させられる.したがって,全員一致は,自然発生的には,また歴史的経験としても,つねに強制的一致である. (中略) 協力を強制するものは, (中略) それは共同体に滲透する恐怖にもとづく模倣欲望というほかはあるまい.強制的全員一致は,恐怖による全員一致である.全員一致はつねに暴力的である. p.241.

極めて明快.「全員一致」の胡乱さはここにある.「全員一致」から外れることの不安感はそこから要請されるものに違いない.

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