さすがにこの分量 (後述) だと時間が掛かる.
- トーマス・マン "ファウストゥス博士", トーマス・マン全集 第 6 巻 円子修平 訳, 新潮社, 1971, 1976, 表題の他に, "ファウストゥスについて", 円子修平 訳, "『ファウストゥス博士』の成立", 佐藤晃一 訳 を含む. (Thomas Mann "Doktor Faustus", 1947, "Über den >Faustus<", 1948, "Die Entstehung des Doktor Faustus", 1949)
高校 3 年の 6 月に買っている.もちろん実家には置いてあるであろう分は別にして,手元にあるのでもこれより古い本はたくさんあるけど,これより古い時期に買ったものはごく少ないというより思い付かない.途中抜けがあるものの,それ以来ずっと手元に置いてきたわけだ.最初に読んだのは高校の図書館から借り出したものだが,なにせ長大な小説である.一冊分丸々だと 26 字 x 24 行 x 2 段組 x 665 pp ある.単純計算で 400 字詰原稿用紙 2075 枚に相当する.携帯に楽なようにと後に入手した岩波文庫だと 3 分冊になっているぐらいだ.まぁ借りて読んでしまえばそこで終わりなのかも知れないが,この本の場合はちょっと違う.実はこの本のことを知ったのは小学生の頃だ.ヤなガキだな,おい (笑).なんせ話が話なんで子ども向きにリライトできるようなもんでもなく,中学まではおあずけだったのだが,やっと高校に入って巡り会った訳である.読んでしまって是非手元にも置いておきたくなって入手,というか買ってもらった.このとき岩波文庫版を知っていたのかどうかは不明.
この長大な小説は副題のとおりファウスト伝説をベースに据えてニーチェの生涯にシェーンベルクの音楽理論を重ね合わせて綴った, 一友人によって物語られたドイツの作曲家アードリアーン・レーヴァーキューンの生涯 (Das Leben des deutschen Tonsetzers Adrian Leverkühn erzählt von einem Freunde)
なのだが,クラリッサの自殺の件など自伝的要素も含まれている.執筆開始は 1943 年の春である. 1933 年,ナチス政権樹立の年にスイスに亡命, 1938 年にはアメリカに亡命していた.第二次大戦ももはや先が見えている頃だ.完成は終戦後になったが,主人公の精神崩壊は同時にドイツ精神史の破滅と崩壊でもある.それを作者は遠い異国の地からじりじりするような焦燥感に駆られつつも注視しているわけだ.まぁ,そんなことはどうでもよい.とにかくこの本も読み出すと止まらないから,思いっきり読みまくれば佳い.
有名なヴェンデル・クレッチュマルの講義「ベートーヴェンは何故ピアノ・ソナタ作品 111 に第三楽章を書かなかったか」は pp.54-59.恥ずかしながらバックハウスを聴いたのはこれを読んでからだったりする.この頃,九州で医者をやってる同級生に借りたポリーニのアナログ盤は,あとになって CD を買った.その後グルダの全集も入手したけど,刷り込みでポリーニのがリファレンスになってる.
ルドルフ・シュヴェールトフェーガーが主人公にヴァイオリン協奏曲を要請する場面, あなたならきっとすばらしい作品が,デリアスやプロコフィエフよりも遙かに立派な作品が出来るだろう
と,唐突に Delius の名前が出てきているのに気付いた.お〜,第一次大戦後はドイツでは Delius は忌避されていたという話だが,アメリカだと事情が異なるのかな.アドルノの手が入ってるのかな.そうなんですよ,楽理関係はアドルノの校訂が入ってるのだ.とまれ,トーマス・マン (あるいはアドルノ) にとってはディーリアスの協奏曲はそういうポジションにあったということで.
たぶん,もっとも印象的なのは,以下の部分だろう.
わたしは部屋を出ようとした,すると彼はわたしを姓で呼んで引止めた,「ツァイトブローム!」と呼んだのである,その声にもきわめて厳しい響きがあった.そして,わたしが振り向くと, 「ぼくは発見した」と彼は言った,「あれは在ってはならないのだ」 「何が,アードリアーン,何が在ってはならないのだ?」 「善であり高貴であるものだ」と彼は答えた,「人が人間的なるものと呼ぶものは,善であり高貴であるにもかかわらず,在ってはならないのだ.そのために人類が戦い,そのために圧政の城を襲撃し,そして遂に戦いに勝ったものたちが歓声を挙げながら告知したもの,それは在ってはならないのだ.それは撤回されるだろう.ぼくがそれを撤回しよう」 「ぼくには,アードリアーン,君の言うことがよくわからない.君は何を撤回しようというのだ?」 「第九交響曲」と彼は答えた.そしてわたしは待っていたけれども,彼はもう何も言わなかった.
[新潮社版 p. 489 より ]
全集版は持ち運びに不便な代わりに,「成立」が収録されているという利点がある.ゼレンとアードリィは同一人物である (p. 579) なんて記述があったりして侮れない.レーヴァーキューンの死をツァイトブロームが語るという構図は,もしかしたら狡猾で圧倒的な音楽の暴力に対する文学の復讐なのかも知れない.あまりに単純ではあるけど.
ところで, May 27, 2004 現在,岩波文庫も絶版で入手困難になってるみたい.いやはや困ったもんだね、全く.まぁ,おれが持ってるのも 1996 年のリクエスト復刊っつ〜腰巻きしてるから大きなこと言えんけどさ.とにかく書誌データでも挙げとこ.
- トーマス・マン "ファウスト博士", 全 3 冊 関泰祐, 関楠生 訳, 岩波文庫, 1974, 1996, ISBN4-00-324344-7, ISBN4-00-324345-5, ISBN4-00-324346-3
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