ぐる式 (貳) より引っ越し作業中.未完.

2006年9月21日木曜日

アーサー・マッケン『夢の丘』

  • アーサー・マッケン "夢の丘", 平井呈一 訳, 創元推理文庫, 1984, 2003, ISBN4-488-51002-7, (Arthur Machen "The Hill of Dreams", 1907)

すでに『大いなる来復』を読んでいるにも関わらずマッケン=怪奇小説作家とラベリングしてしまうというのは刷り込みの強度を物語っているわけだが,そのせいか強烈な読後感を残す.中井英夫の「小説は天帝に捧げる供物,一行でも腐っていてはならない」というモットー,稲垣足穂の『弥勒』とアラン・ガーナーの『ふくろう模様の皿』と笠井潔の『バイバイ、エンジェル』が頭んなかをぐるんぐるんしていた.「江美留は (弥勒であるから) おれだ」とは不遜に過ぎるが,「ルシアン・テイラーはおれだ!」と叫ぶ人がいてもおかしくない.マッケン第二期の到来を告げる本作は,ウェールズ南西部はシルリアの幻視者ルシアンの「牧神の午後」から「彼方」へ至る物語.

その自分が,じつは,今は滅びた亡霊の軍隊の築いた,荒廃した砦のある町カーマエンのあの晩の幻影の体現者だったのである.生命も,世界も,太陽の法則も,とうにどこかに消え去って,再生が起こり,死者の国がはじまったのであった.ケルト人の血が彼を駆り立てて,妖しい森から手招ぎをしている.森を世界としていた《矮人》であった遠い先祖たちが洞穴から出てきて,舌足らずのシューシューいう人間のものではない言葉で,しきりと呪文と祈祷を唱えている.——彼は何年も何代も,自分の民族のなかで眠っていたいという願望に,雁字がらめになっていた.

[ p.69 - 70. より ]

異能を授けられたもの (徴を付けられたもの) の苦闘としてみれば,それはそのままメロスの戦士.その旋律 (戦慄) がもし「苦悩を経て歓喜へ」とでもいうようなものなら,その歓喜は現世的には死という形をとる.でも,たぶん,そもそもそういう意味付与をしようする時点で間違ってるんだろう.

今度はちょとパラフレーズ.

第一の壇に登るに五つの階あり,また第二の壇に登るに七つの階あり,いずれも潔らかなる斫石もて造りたり.さてその上の彫り刻みたるいと珍かに光り輝けるものあり.もっとも高きところに刑台に掛かれるオヤシロサマの聖像ありて,その右手に古手梨花,その左手に北条沙都子随添いたり,六人の美しき輝ける大天使これを担ぎ支う.その下に気高き十二聖徒,並に諸聖及び殉教者の像並列たり,さらにその下には牡牛,馬,豚,小さき狛,孔雀など,諸の禽獣ら並列たり,その細工極めて巧みにして精しければ,さながら此の世の責苦なる荊棘の森にて捕えたるが如し.さて一年に一度の荘厳なる儀典あり.その時鬼ヶ淵の祭司,謳歌う者と村民を伴い,聖歌を唱和しつつ行列を組みて村道を練り来る.衆人聖像の前に立つ.この時司祭園崎魅音は儀式を修し,禽獣らのためにも祈祷を唱え,さて第一の壇に登りて衆人に教を説く.主オヤシロサマはわれらのために自ら刑台に登りて死に給う.されば我儕は主の慈しみ給いし活物なる禽獣らにも慈しみを掛けるなり.彼等は主の哀れなる臣下にして愚かなる僕なればなり.されば彼等を聖なる天使と等しく主に歎かしめ,かくして予てより地上において主に仕えし聖十二使徒及び殉教者たちは,今は天上に於て主を讃え,此の世の業苦にある人の下なる禽獣らもともに主を讃えるなり.文書に説けるが如く,その魂堕落すればなり.

[ p.120. より ]

長文なら誰も読まんだろと思って適当過ぎること書いてるだろ (笑).

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