rinamo さんと甘噛みさんに触発されて.最初は「観物系」に入れていたが,本編とは関係ないし典型的な与太話なので,蠕虫類ならぬ「その他」に移動.んで,みやびさんの真似をして 過去ネタ一件.
ちょっと振り返ってみる.第 1 話で描かれていたのは,定期券の落とし物と仕事絡みで手に入れた遊園地の入場券の二つによる耕四郎と七夏の出会いで,実は彼らが実の兄妹だったという基本設定.そのあんまりな設定とは対称的に落ち着いた絵で,これだけで続行決定している.ただ知人間ではあんまり評判佳くないらしく, H 師匠はこの一話だけで切り決定したそうだ.西方面からもあまり佳い話は聞かないので似たような状況かと.
ここから先は rinamo さんの言葉を借りれば「徹底的に耕四郎視点でストーリーを進めて行くこと」になる.くんくんや自涜,職場での自失などヘタレな部分の容赦のない露悪的描写を折り込んで.最終的には,甘噛みさんの言葉を借りれば「兄妹が今までの人生と決別する覚悟を持って挑んだ、悲壮な儀式」に至るまで.「悲壮な」という形容詞には同感であるけれども,ここには「哀切で」という副詞も付け加えたい気もする.
話が進むにつれ,佐伯家は父善三さんと耕四郎の二人暮し,善三さんは離婚していて母親の槙絵 (梢絵) さんは七夏と二人暮しだったことが判る.高校に通う七夏が佐伯家にやってきたところから第 1 話が始まったわけだ.その後耕四郎は実家を出て一人暮らしを始める.そう言えば耕四郎が自主的に行動した (させられた) ものって,他には七夏に恋愛感情を抱いたことと春雷終結部ぐらいしか思い付かんのだけど,なによりましてこの一人暮らしってのがアイロニカルで鬱.
ここから先はこじつけと妄想である.
最終話で耕四郎が表札に向かって「すまん」と呟く場面がある.父の善三さんに対してだろうけど,なんかしっくり来ない.あ〜だこ〜だ考えているうちに,家に対して詫びを入れているのではないかと思い付いた.そうすると不可解だった七夏の体格にも理由があるのではないかと思えてくる.最終話であれだけ悪意のメタファを放り込んでおいて極めつけに「陽炎」というタイトルを付けるスタッフである.七夏の心の動きが今ひとつ不鮮明なのも理由があるのではないか.
第 1 話で明らかになっているのは,顔も知らなかった妹との出逢い (再会) であると同時に,自分の家に七夏という異分子が移住してくることである.ある家庭の中に,その血縁者を名乗る見知らぬ登場人物が一人放り込まれる.耕四郎は「七夏は妹」と認識してはいるが体得してはいない.つまり,これはもう一つの「明朗家庭崩壊喜劇」なのではないだろうか.耕四郎に比して七夏の比重が小さいのは,七夏が自覚しているいないに関わらず,彼女が「無垢なる純白の誘惑者にして破壊をもたらすもの」を演じていることをスタッフが隠すためだったのではないか.この作品全 13 話は,一度分裂している佐伯家の家族の絆が徐々に自壊して行くプロセスだった,と.やはり耕四郎が家を出て一人暮らしを始めた時点で物語の地平を超えてしまったように思う.そんなふうに考えながら見ていると,第 12 話からは止めを刺されて緩慢に死んで行く家の悲鳴が聞こえてこないだろうか.
原作未詳なのでアレだが,最初の方は七夏はむしろ裏麿子にも思える.こっちで進めば諸星家のような空間が構成されていたのかも知れない.もしかしてそれが OP ラストに出てくる光景なのだろうか.そこはたぶん槙絵 (梢絵) さんが住む,海岸近くの坂の多い街だ.海を右手に見ながら耕四郎が自転車を漕いでいる.踏切で停車するとその向こうを歩いている七夏の姿.七夏も耕四郎に気付く.電車をやり過ごし踏切が開くと掛けてくる七夏.
対外的には「兄妹愛による禁忌の侵犯」的なセンセーショナルさを掲げながらも,その実この話は純愛ものだ.哀切感が漂うのは「禁断の恋」を劇的ではなく沈鬱に描いたから. 1922 年来,このような超歴史的な構図を与えられた登場人物は矮小化するか,与えられた構図の時間軸に戻るしかなかったのだが,この二人には頭身大のまま移動して行った.行った先はすでに崩壊し果てた家だ.今はそんな気がしてならない.
最終話では新たに DVD CM が 1 本追加されていた.もちろん保存済み (笑).それにしても #05 遠雷の 録画失敗 は痛かった.
関連リンク
- rinamo さん 文学と萌えの狭間を吹き抜けた恋風
- 甘噛みさん 恋風(SP, 11, 12/最終回)
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