ぐる式 (貳) より引っ越し作業中.未完.

2006年1月6日金曜日

蟲師 #08 海境(うなさか)より

  • 蟲師 DVD 1b (台詞なし 15 秒)
  • 蟲師 OP CDS / 蟲師 DVD 1a (台詞あり 15 秒)

「あんたの故郷,早く見たい」 © みちひ.

前回のギンコの台詞を引用すると,「何処へなりとも根を下ろして,過去なんて捨て去」ることの代償に妻を失った男の話.オルフェオとエウリディーチェというか,裏浦島というか.あって当然,いて当たり前のものを失って初めて知る不在の重み,と言いたいところだが,行き場を失って彼岸へ渡ってしまったものと,新たに定住したものとの対比が強過ぎて哀れを極める.

(名称不明.海を埋め尽くしそうな蛇の群れ)
形状は蛇に酷似.靄を発して外界を巡るものと,山深くひっそりと生きるものの二種類がある.時が来ると,山のものは山を下り,海のものは近海へ寄り,沖で合流し千日後に同じ近海へ戻ってきて一体の蟲になる.超巨大なこの蟲は画面では頭部は見えないが,胴体は百足のようにも見える.千日はほぼ二年と九ヶ月.発する靄は,外から中は何も見えないが,中から外は佳く見えるという浸透膜のような働きがある.この膜にはさらに機能があって,行く場所あるいは帰る場所が明確でないと外が見えない.そこがふらついていると,蟲の世界へ入り込むことになる.甲羅を経たという意味の「海千山千」が,海に千年山に千年生きた蛇が竜になるという言い伝えに由来するのは岩波国語辞典で確認.

海境(うなさか)とは海の果ての謂.海界と書くこともある.万葉集第九巻に収録されている高橋虫麻呂の「水江の浦島の子を詠める歌」 (9-1740) は浦島伝説にそっくりだが,そこで「……七日まで 家にも来ずて 海界を 過ぎて榜ぎゆくに……」と使われている.

詠水江浦嶋子

春の日の 霞める時に 住吉の 岸に出で居て 釣舟の とをらふ見れば 古の ことそ思ほゆる 水江の 浦の島子が 堅魚釣り 鯛釣りほこり 七日まで 家にも来ずて 海界(うなさか)を 過ぎて榜ぎゆくに わたつみの 神の娘子に たまさかに い榜ぎ向ひ 相かたらひ 言成りしかば かき結び 常世に至り わたつみの 神の宮の 内の重の 妙なる殿に たづさはり 二人入り居て 老いもせず 死にもせずして 永世に ありけるものを (以下略)

[ 高橋虫麻呂 千人万首 より ]

海境と海界の二つを合わせると境界だが,ここでのソレは境界という「分けるもの」ではなくて,「その向こうにあるもの」.海界(うなさか)を過ぎて榜ぎゆくとは,空間的な制限を突破してしまうこと.行き着いた先は蟲の世界なので時間的な限界をも侵犯してしまう.つまり,此岸とは異なった単位による時間に飲み込まれ流される.

ナミという落ち着き先を見付けたシロウが,失って千日後にギンコの誘いに乗って (みちひ を求めて) 海に乗り出すのはまるでオルペウスとエウリュディケー,伊奘諾と伊奘冉だが,冉 (niäm) とナミの符合が気になるので,この考えは捨てる.ちなみに,伊奘冉が海を産むのは国産みの次.仕切り直し.「みちひ」は満干,「ナミ」は波とする.ならシロウは海を失って海を得たことになる.みちひ は失われたのではなくて,海になった,あるいは,実は みちひ とナミは同一人物.そに海に抱かれて生きるシロウとナミ.そうとでも考えんとやり切れんわな.三年あるいは三日経ったあとでも みちひ が人形を維持していたのは,もう一度シロウに逢いたいという激しい願いのなせる技だろう.

みちひ は清水香里.判別しやすい声だが,あんま見てないから,なんかこういう役って珍しい感じ.

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