「聞こえます.潮騒の底から語りかける過去の囁きが.寄せては返す人生の荒波に沈んで行った哀しい家族の物語が.繰り返し回想され退色を重ねたフィルムのように,その面影を失った生涯よりけして輝きを損なうことのない幼年期の一こまがあるように.あるいは支え合うことに疲れた男女にも互いの横顔に出逢いのときのときめきを見出す夕べがあるように.家族の歴史には至福に満ちた夏の日の記憶が刻み込まれているものなのかも知れません.眩い陽射しの下,甲高い声を上げてはしゃぎ回る幼い息子,華のように開いたビーチ・パラソルの下でそれに応える逞しい父親の笑い声,その夫に魔法瓶の冷えた麦茶を差し出す若い妻,やがて訪れるであろう父と子の相克,夫と妻の倦怠のときも知らぬ気に,幾百幾千幾万,夏の訪れとともに数え切れぬほど繰り返され,その翌年もその翌年の夏も繰り返され続けた家族の至福の光景.訪れる人も絶え,潮騒の呟きの中に在りし日の家族の情景を封印した想い出の浜辺,家族が家族であった時代の記憶が寄せては返す追憶の浜辺.ようこそ,大洗海水浴場へ」 © 四方田麿子. B パート頭のこの超長台詞,たぶん全編中でもっとも好きな台詞なんだけど,四方田家の中では麿子がいちばん家族のことを思いやっているように聞こえるんだが,絵と合わせて観るとまるで麿子の自己弁護の言説に見えてしまうというなんとも皮肉なというか容赦ない描画.
さらに舞台は転じて,大洗海岸の寒寂びた浜茶屋.文明と犬丸の物語論談義のうちに三々五々集まってくる四方田家の面々と多々羅伴内.この六人が展開するのは今度は裁判劇.「家庭に対する純粋な悪意そのもの,家庭秩序の破壊を目論む永遠のアナーキスト」麿子詐欺師説に立脚する多美子さんと多々羅伴内が繰り出す証拠の数々.ついでに吉本金融の室田文明も実在しないことを暴く.あくまで虚構の物語という点にこだわり主役を演じるのは誰かという点から詐欺師説を粉砕しようする犬丸との駆け引き合戦.だが,落としどころは意外な結果.甲子国の郵便局強盗が明るみに出る.これの対抗策として四方田家は再度一家結集する.反社会的逃走家族として結束するわけだ.
文明「未知なるものの訪れ,あるいは新たな設定による斬新的な展開に物語の可能性を探ろうとする思想が,実はすでに物語の可能性そのものを簒奪し続けてきたのだという逆説がまだ判らんのか.始まりがあって展開があり,そして必然という名の終局に至る物語の形式は,ただそれが語られ享受される局面においてのみ偉大であるに過ぎない.真に生きられる物語には始源も展開も終局もない.そこにあるのは強固なロジックの無限の反復,ただそれだけだ.この荒廃した海水浴場のこの犬小屋同然の浜茶屋で来るはずのない客のためにモロコシを焼く日々の中に,お前自身の物語の可能性を見出せないとするなら,ここがお前の物語の終わるところだ.たとえこの店に客が訪れることがあっても,それは同じロジックの反復を確認する契機であるに過ぎない.そのことを忘れるんじゃねぇ!」 犬丸「だとしたらおれは,おれはいったいなにを根拠におれ自身を演じるべきなんだ」 文明「簡単なことだ.より劇的なるものを求めて.お前の得意技だろう」 犬丸「そしてあんたも」
詐欺師説を粉砕したのは「閉ざされてあるべき家族の葛藤劇にあんな部外者を招いた報い」という犬丸の言葉だが,これは実はもっと大きな「真実」を言い当てている.さらにそれを受けた文明「今まで何度となく語られていながら未だ姿を見せぬある人物,登場と同時にこの物語を根底から震撼させることになるだろうある人物」は次回以降で.甲子国の五百万は吉本金融から融通したものではなく,強盗して得たものだった.つまり,文明が犬丸と麿子を浜茶屋に引っ立てて来たのは別の理由があったことになる.
大名曲『時の番犬』を室戸文明が披露.「減素取生」が「ペレストロイカ」ってぇのは当て字だね.室戸文明はダンスもそこそこ巧いし (『紅い眼鏡』),歌もけっこうイケるじゃん.
前口上は駝鳥の子孫略奪.「子に過ぎたる宝なし」は平家物語十三,少将都帰,「千の蔵より子は宝」,「娘三人一身代」,「犬になるなら大家の犬」の3つは出典不明だが,すでに諺化してるらしい.
0 件のコメント:
コメントを投稿